郡上八幡を訪ねました。踊りと湧き水の街ですね。


 谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま    (杉田 久女)

 炎暑の毎日ですが、こんな夏の句を読むと、高い山に登り郭公の声を耳にして、山の涼気に触れる思いです。久女、虚子門下で「ホトトギス」で活動し、近代の女性俳人の牽引者のひとりでしたが、なかなか波乱の多い人生、モデルとなった小説も多く書かれています。

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 まず通りに吊られた大提灯をご覧ください。「郡上踊」とありますね。そう、郡上八幡の街は夏になると「郡上踊り」で大勢のひとを集めます。先日、初めて美濃の国岐阜県を観光し、ここ郡上八幡に一泊してきました。ただし今回の旅、名古屋の大学で「ロックミュージックシーン」というロック論の講座の集中講義を三日間行っての帰路でしたので、教材音源のCDを大量に抱えての移動でした。CDの重いこと、いやあ大変でした(笑)。

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 名古屋から名鉄、JRと乗り継ぎ、美濃太田からは長良川鉄道、渓流に沿って北上し、郡上八幡の街にやってきました。この街のなかにも清流の吉田川が流れています。川に架けられた新橋の脇に、郡上八幡旧庁舎記念館が建ちます。昭和11年に建てられた洋風建築で、現在は観光案内所兼休憩所です。前には湧き水を掬ってそのまま飲める、「おもてなし」の箱?がありました。湧き水、おいしかったです。

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 重い荷物を今夜の宿の「みはらや旅館」に預けて、しばし街を散策、お昼ご飯は奮発して鰻丼の上としました(笑)。

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 続いては、街のシンボルともいうべき八幡城に登りましょう。築城の起源は、室町期の永禄2(1559)年に、本家の東(とう)氏を滅ぼした遠藤盛数が郡上市一帯を支配した時にさかのぼるそうですが、現在の天守閣は、昭和8年に再建されました。木造の四階建てで内部は資料館も兼ねます。天守閣の窓からは街がよく見渡せました。吹いてくる風も涼しかったですね。

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 郡上八幡博覧館では、郡上踊の実演をやってくれます。この踊りのルーツ、もとは白山信仰に関連する山念仏や歌念仏が念仏踊りになり、それが盆踊りに発展したものだそうです。江戸中期の享保年間には踊り禁止令が出たくらいですから、相当な盛り上がりがあったのでしょう。武士や農民、町人を問わず城下で盛んだったよし。毎年8月13~15日の徹夜踊りには、全国から何万ものひとたちがやってくるとか。

 郡上踊、僕は富山のおわら風の盆のように、観光客は踊りを見物しに来るのかなと思っていたのですが、こちらは参加型の盆踊りでした。浴衣姿の博覧館の受付のおねえさんがふたり、実演してくれるのですが、「皆さんもどうぞ」となったので参りました(笑)。下駄をはいた足を烈しく地面に打ち付けるので、下駄がすぐにすり減るのだとか。確かに街ではたくさん下駄を売っていますね。

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 街には吉田川の他に小駄良(こだら)川が流れていますが、そのふたつが合流するあたりに、宗祇水(そうぎすい)という史跡があります。岐阜県の名水百選の泉水です。連歌師の宗祇が、当時この地の領主だった東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けるために郡上を訪れた際、この泉水まで見送って和歌を贈った、という故事に由来するそうです。(このそばに宗祇はしばらく滞在してこの泉水の水を呑んでいたから、という説もあります。)江戸時代には頼山陽などの文人墨客がこの泉を訪ねてきた、と言われます。いまもここに豊かに湧き出す水は、そばの小駄良川に注いでいます。川では地元の子どもたちが泳いでました。一枚、記念スナップを撮ってもらいました。

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 この街を、国学者・民俗学者で歌人だった折口信夫(おりくちしのぶ)も二回訪ねているのですね。駅でもらった街の観光案内図に折口の歌碑があると出ているので、『折口信夫 霊性の思索者』(平凡社新書)という著書を持つ当方としては、その歌碑はぜひチェックせねば、です。最初に紹介した旧庁舎記念館の川の向かいにありました。崖にくっつくように建てられていて、湧き水が碑を濡らし続けています。

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 立札の説明によると、折口は民俗学の師である柳田国男に薦められて大正8年の8月に初めてこの街を訪ねたのですが、ちょうど7月16日にあった大火事で街が焼けてしまったところだったので、いわば街への鎮魂の思いでこの歌を詠んだのですね。その後、折口の亡くなる二年前ですね、昭和26年の10月に二度目の訪問をした際に、乞われてこの歌を色紙に書いたのを碑に刻んだそうです。

 さて翌日です。郡上八幡の街はだいたい見学し終えたので、タクシーで北に20分ほど行ったところにある明宝(めいほう)という地区を訪ねてみました。昭和12年に建てられた小学校の、なかなか風格のある校舎を利用した明宝歴史民俗資料館があるのです。地元の民具・生活用品を中心に考古出土品から江戸期の文書などを網羅的に4万7000点も集めたコレクションは、全国的に見ても珍しいでしょう。

 民具といっても、この地区は農耕や林業以外にも、養蚕や狩猟漁撈、また近くに鉄鉱の鉱山もあり、牛馬を運搬に使うので、蹄鉄の鍛冶屋も多かったとか。さらに、この地区で生産される明宝ハムというブランドは全国にも知られているそうです。ですから養豚や牧畜もやっています。(明宝ハム、乗ったタクシーの女性ドライバーに薦められたのでお土産に買いました(笑)。)そんなわけで、産業が多岐にわたるので、民具の種類も多いのです。折口が戦後に来たときには、まだ開館していなかったでしょうが、民俗学者の折口にもここを見せたかったですね。

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 お別れの引用句、先ほど画像を紹介した折口の歌碑の歌としましょう。折口は歌人としては釈迢空という筆名を使いました。

「焼け原の町のもなかを行く水の せせらぎ澄みて秋近づけり」
                             (釈 超空 歌集『海山のあひだ』より)

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